古文書学の権威、中村直勝(1890〜1976)の『歴史の発見』(昭和37年刊)を読んでいて、次のような件りにぶつかった。
大正半ばの頃、京都祇園町にある古書・古文書を扱うG荘で、「かうぎよく上人」に宛てた第109代明正天皇の直筆の書状が
十何通かまとまって売りに出されたことがあった。
明正天皇って誰?という人が多いかも知れない。
私の『日本の10大天皇』でも取り上げた後水尾天皇の急な譲位の為に、
その皇女だった興子(おきこ)内親王が即位して天皇になられた。
その方が明正天皇。
じつに奈良時代以来、860年ぶりの女帝だった。
勿論、それらの書状は高価なこと、この上なし。
専門家といえど、誰も手が出せない。
そこで、十何人かでお金を出し合って、皆で分けた。
価値ある文書なので、ほどなく全て重要美術品の指定を受ける。
中村博士も、その中の一通を所持していた。
ところが、奈良の薬師寺の五重塔を修理する話が持ち上がって、その費用の為に、大切な明正天皇の直筆を手放したという。
「今、誰の手に渡っているだろうと、身売りさせた愛娘の行方が気になって寝られぬ夜がある」と。
手放した貴重な古文書を「愛娘」に喩えて愛惜されるあたり、いかにも古文書を愛された博士ならではの表現だ。
薬師寺の歴史を振り返ると、大正半ば以降、同書刊行迄の間で、昭和27年に東塔と南門の修理が終わったという。
博士が明正天皇の書状を手放して修理の費用の一部に献じたというのは、恐らくこの時のことだろう。
但し東塔(730年建立か)は、正確には五重塔ではなく三重塔で、各層に裳階(もこし)が付いていて6層の軒が重なっている。
この記述を読んで、もしやと思い、書棚の小松茂美『天皇の書』(平成18年刊)をひっくり返してみた。
やはり、あった。
紛れもなく明正天皇直筆の書状の写真が収められている。
しかも、宛名は「かうきよく」。
京都、十禅寺の住職、江玉真慶(こうぎょくしんきょう)に宛てたもの。
天皇が退位した直後の正保(1664〜1668年)初年頃の書状らしい。
所蔵者は「個人蔵」とあるだけで、不明。
これが中村博士がかつて所蔵しておられた書状そのものかどうかは無論、分からない。
しかし、大正半ばの頃、中村博士らが胸を躍らせながら京都のG荘で手に入れた書状の中の一通であることは、ほぼ疑いないだろう。
ひょっとすると、中村博士が薬師寺東塔の修理の為に手放しながら、
「愛娘」のようにその行方を気づかった、当の書状の可能性すらある。
長い歳月を越えて、その書状を、そうした経緯に想いを馳せながら、貧しい書斎で眼前にしていると、何か不思議な感慨に襲われる。
ちなみに、小松氏は明正上皇の書状の筆跡について、以下のように評しておられる。
「手馴れた筆致。すでに一抹の老成味が漂う。天骨(てんこつ、生まれつき)と言うべきか。
淡々たる運筆の中に、ひたぶるに仏の道を求める、いまだ若き女上皇ながら、脱俗篤信の面影が彷彿とする」と。
当時、上皇はいまだ22、3歳だった。
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